2014年8月14日木曜日

マイケルの56回目の誕生日を前に[6]愛する人が死んだとき・・・




私にとって、マイケルの死の衝撃は、彼のことだけでなく、自分を含む人間というものについて、深く考えるきっかけになりました。

愛はいとも簡単に憎しみへと変わり、真実は、それを判断する人間が何を信じているかによってまったく違って見え、正しいことを求める気持ちは、多くのとりかえしのつかない過ちを生む。

世界で一番たくさん「I Love You」と言ったMJは「僕は人を憎むことは絶対に教えない」と言っていたのに、大勢のファンがそれを守れなかったのはなぜなんだろう。そんなことを思っていたときに、たまたま読んでいた文章をメモしておきます。


内田樹『街場の読書論』
フロイト「トーテムとタブー」より省略して引用。

知性の切れ味というのは、平たく言えば、「誰かを知的に殺す武器としての性能の高さ」のことである。でも、その性能は、「知的にも、霊的にも、物理的にも、人を損なってはならない」という戒めとともにあるときに爆発的に向上するのである。

愛と憎悪と対になり、それと葛藤するときに深くなる。憎悪は愛と葛藤するときに深くなる。知性と愛の関係もそれと変わらない。学術性とは愛の深さのことだ。

自分の愛する親や子や配偶者の死を願っているという心的過程は「事実」としてあるのではない。死者に対する愛情が深いときにだけ強迫自責は起こる。死者に対する殺意などつゆほどもありそうにない関係に限って強迫自責は起こる。

たぶんこういうことではないかと思う。

愛する人が死んだとき、私たちは「もっと愛したい」と思う。「もっと愛しておけばよかった」と過去への悔悟はそのまま「もっとこの先も愛し続けたい」という未来への投企に読み替えられる。

そして、愛情を亢進させるもっとも効率のよい方法は、愛情と葛藤するものを呼び寄せることなのである。





「私には死者に対する無意識の殺意があった」という自責は私の死者に対する愛情と非妥協的に葛藤する。この自責に耐えるためには、私の死者に対する愛情をさらに高めるしかない。私はこんなにもあの人を愛していたし、現にこんな風に愛したし、死んだあとも愛し続ける。と「殺意」を否定するために、大量の心的エネルギーが「愛」に備給される。

奇妙な話だが、私たちは誰かに対する自分の愛情を高めるために、それと葛藤する心的過程(憎悪や嫉妬や殺意)を呼び寄せてしまうのである。

それと同じことが逆の行程でも起きる。殺意は愛情を亢進させる。学術性とは愛の深さのことだというのは「そういうこと」である。

人間の人間性を基礎付ける戒律が「神を愛しなさい」と「あなた自身を愛するように隣人を愛しなさい」の2つであることと同じである。

愛だけが人間のパフォーマンスを爆発的に向上させる。

むしろ、人類の始祖は知性と霊力と体力を爆発的に向上させるために「愛」という概念を発明したのかもしれない。ことの順序としてはその方が「ありそうな話」である。

(引用終了)








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